■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」

<番外篇> ボランティア、企業が活動を活発化/21世紀型モデルなるか


(2012年2月1日)

大震災に見舞われた東北の地に、街づくりの動きが活発化してきた。大惨事から10カ月―「生活の場設計」がようやく具体化に向かう。この間、住民を支援したボランティアや、住民が価値認識を新たにした企業を参加させる形で、街の再生を図っていくのは必至だ。21世紀型街づくりのモデルとなる可能性がある。

筆者は昨年12月、津波で全滅状態となった岩手県宮古市田老地区や山田町を訪れ、復旧・復興状況を調査した。田老は、長さ1.3キロに及ぶ世界最大級の防潮堤を誇っていたが、高さ20メーターほどの大津波は、高さ10メーターの堤防をいとも簡単に乗り越え、街に押し寄せた。
田老の人口4400人余のうち死者・行方不明者は184人。地元消防団員は22人中12人が死亡した。
復旧の手始めとなるガレキ処理は「ほぼ片付き、海辺の仮置き場に収まっている状態」(田老総合事務所)だ。このあと、選別され、廃棄物処理を引き受けた東京都などへ移送される。
今後の課題は、安心して住める街づくりと、壊滅した漁業の立て直しだ。安全な高台への移住か、元の所に戻るか―の議論が住民の間で沸とうする。
「納得のいく決着を」と行政当局は当初の4回の会合予定を6回に増やし、3月末までに復興計画を策定したい考えだ。漁業の再建計画も、流された加工施設を高台に造るか否かを決め次第、具体化へ踏み出す。

大津波と同時に火災も発生、約1万7000人の住民中、死者・行方不明者を743人も出した岩手県山田町。ガレキもほぼ片付き、12月にようやく「山田町復興計画」の策定に漕ぎ着けた。計画は10年後を見据え、復旧期・再生期・発展期の街づくりを示した。
街づくりの土台となる土地利用再編の考え方は、居住地のうち被災区域については一部を盛り土でかさ上げし、新住宅地として整備するほか、丘陵部を造成して高台住宅地を築く―というものだ。
17世紀にオランダ船が漂着した歴史もある古くからの漁港は、現在の配置を生かして復旧する。新防災拠点として、高台に公園緑地を整備することも盛り込んだ。
このように、復興計画が成就すれば、「より安全で機能的な漁港町」に生まれ変わる。

さらに、大災害の苦難の中、2つの大きな希望的要素が加わり、これが復興に力強い活力を与えていく、とみられる。それは人と企業の貢献である。
筆者に寄せられたボランティア情報の中に、感動的なメールがあった。
京都大医学部を卒業し、放射線治療医学専門ドクターとして活躍後、リタイアしていた74歳の元医師だ。思い立って昨年末に福島にワンルームマンションを自費で取得、この1月に単身移住し、ボランティアで放射線被害者の治療に専念する。「この年になると放射能も怖くない」と友人に話している。
もう1人、やはり京都大で原子核工学を学んだ69歳の男性も、悠々自適のリタイア生活からボランティア活動家に転じた。昨年8月、福島に単身移住し、原発復旧作業員や自治体職員、消防・警察関係者への放射能除染対策の教育訓練活動に余念がない。
この情報を知らせてきた65歳の男性も昨年、陸前高田や気仙沼に足を運び、ガレキ撤去作業などのボランティア活動に参加している。
このように“老人パワー”も、被災地の若いボランティア活動家に加わって、自らの知識と経験を生かした献身的な活動に従事している。

ボランティアパワーと並ぶ、もう一つの希望的要素は、企業パワーだ。企業の多くが再建の強い意志を持ち、底力を発揮していることだ。
たとえば広域にわたり津波に飲まれた宮城県石巻市。浸水した日本製紙石巻工場は、早くも昨年9月に操業を再開して関係者や地元住民を喜ばせた。筆者が昨年4月に訪れた当時、大人の背丈ほどもある同工場製の紙ロールが津波に引き出されて工場外に大量に散乱していた。この光景を前に「復興には10年かかる」と言ったタクシー運転手の言葉が思い出される。
企業の持つパワーと社会に果たす役割がいま、復興の途上で見直されてきているのだ。