■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
<番外篇>無責任政治の象徴/福田首相の“出勤拒否”

(2008年9月16日)

  あまりにも無責任な政権の「放り出し」であった。福田康夫首相が9月1日夜、緊急記者会見して辞意を表明した。1年前の安倍晋三首相に続く唐突の職務放棄だ。筆者は「ニッポン無責任政治の象徴を見た」思いで唖然とした。(これが一国の総理のすることだろうか・・・)と。
 今回の辞任劇の持つ意味を考えてみよう。まず、本人の立場の問題をみる。次に、そこから生じる責任と負の影響をみる。
 本人の立場は、ありきたりのサラリーマンではない。内閣総理大臣である。職務の責任と影響は最大級だ。しかも、重病でも何でもなく、1ヵ月前の8月1日に内閣改造を行った矢先だった。
 それが突然、重大職務を投げ出した。一国の最高権力者の職責を自分の一存で放棄したのである。

 いま、全国の小、中学校で登校拒否が多発している。福田さんは、率先垂範する立場なのに、内閣に“出勤拒否”をしたのである。我慢できずに「いやなら辞める」式の風潮を地で行ったのだ。若者や子供たちへの悪影響は、計り知れない。2代続きの政権放り出しは、国際的にも極めて異常で、日本政府への信頼感を大きく損なった。
 しかも、出勤拒否をしながら、国民にわびるどころか、自らの辞任が政治空白をもたらすのに「政治空白を作らないため」などと強弁した。のみならず、「ねじれ国会の下で大変、苦労させられた。・・・与党の出す重要法案には真っ向反対、聞く耳持たずということは何回もあった」と、民主党にこそ責任があるかのようになじった。
 救い難い無責任ぶりに加え、己の責任は棚上げにして、他人のせいにする自分勝手な性向もみて取れる。

 国民の側からみて、期待を裏切り続ける首相の低支持率は当然の帰結であった。わけても年金記録漏れ問題で、国民の失望が一挙に深まった。公約していた名寄せ作業の断念について「公約違反というほど大げさなのかどうか。(政府が)具体的にどう言ったのか、私もよく覚えていない」(昨年12月)との発言が響いた。まるでひと事のようだからである。
 福田さんの最大の欠点は結局、冷淡で国民の立場への理解も共感もできなかったところにあるのではないか。それはそもそも、国民生活への関心が薄いせいであろう。理解も共感もできなかったから、十分な状況判断ができず、グズグズと決断を先送りしたのではないだろうか。

 首相と国民との隔たりは、本人の説明不足と表現不足によって、ついに埋まらなかったのだ。国民は問題山積の中で「希望」を求めているが、福田さんは米国のオバマ大統領候補とは対極的に、国民を高揚させることは一度もなかった。国民に「生きがい」と「希望」を与えることに、ことごとく失敗した。他者を元気づけられない者に、リーダーの資格はない。
 にもかかわらず、安倍前首相の辞意表明を受けて行われた自民党総裁選で、麻生派以外の全派閥の支持を受け、大勝している。 福田さんを「日本の首相」に選び、政治空白を再び引き起こした自民党の責任は大きい。政権政党の資格が問われよう。

 福田辞任劇と同じ日、隣の韓国では李明博政権が、減税を柱とする大型の経済対策を発表した。李政権は、低下した支持の挽回に必死である。政権に執着しているのだ。政治の世界は、一面では権力争奪の世界だから、リーダーを志す者は、打たれ強く、意気軒昂でなければならない。
 マックス・ウェーバーは、政治家にとって「情熱―責任感―見識という3つの性質が特に大切である」と、その著「職業としての政治」で説いた。 「政治とは、情熱と見識とによって固い板に穴をあけてゆく力強い緩慢な仕事である」(清水幾太郎訳)とも書いた。
 この「穴をあけてゆく作業」には、相当な我慢強さが要るのだ。そして、その我慢は、政治家として人々に自らを献げる(dedicate)志がなければ長続きしないだろう。 政治を「職業」として選ぶ。このことは、親譲りの選挙基盤を受け継いで政治家となる二世議員の「安直な道」とは本来、相容れないのである。 ウェーバーは言う。「彼が世界に献げようとしているものに比べて、世界があまりに愚かで卑しい場合にも、それに挫けない自信のある人・・・そういう人だけが、政治への「天職」を持っているのである」 (山形新聞9月13日夕刊「思考の現場から」に掲載)