NAGURICOM [殴り込む]/北沢栄
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沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
第11章 吉野川可動堰「ノー」が「土建国家」に与えた打撃
 国(建設省)の吉野川可動堰建設計画を巡り、地元の徳島市民の九割強が住民投票で「反対」の意思表示をしたことは、今後の公共事業全般の実施にブレーキを掛ける大いなる転回点になりそうだ。  これまで地元の住民の意思を直接問う住民投票は、原発とか廃棄物処理施設のような“迷惑施設”の建設を巡って実施されることはあったが、河川堰で行われた例はなかった。地元住民は洪水の可能性を否定できないにもかかわらず、「計画されているような可動堰は必要ない」と国に応答した。この前代未聞の住民の「ノー」は、「土建国家ニッポン」が推進してきた公共事業行政への不信感を表明したものだ。

 新河川法(97年12月施行)によれば、河川管理者(国)は「関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講じなければならない」とあるから、国は住民投票で示された地元住民の意見を無視することはできない。そうなると、国は吉野川可動堰建設計画の「撤回か修正か」の二者択一を迫られる。今後に続く全国の公共事業計画に、大きな風穴を開けられたわけである。
 徳島市民の「ノー」を受けて、当初住民投票を「民主主義のもとでの誤作動」などとけなした中山正暉建設相が、次第に柔軟姿勢に変わってきた。そのはず、新河川法に照らせば住民の意思を無視できないことが自明であるためだ。建設省は強行突破を断念し、住民と懇談会を設けて可動堰に代わる代替案を含め議論を進めていく構え。結局、計画の見直し・修正は必至だ。

「政・官・業」ぐるみ公共事業に対する不信

 洪水の被害から人命と財産を救うかもしれない堰の改築に、なぜ地元住民は「ノー」を突きつけたのか。まず、事のいきさつを建設省の計画と説得工作からみてみよう。
 建設省が固定堰である第十堰を撤去し、総工費950億円(うち県が二割を負担)をかけて可動堰を建設しようとした主な理由は、第十堰が河床から四メーター以上も突き出た構造物であるため、「せき上げ」によって洪水の流れを妨げる、というものである。目標の「150年に一度の洪水」にも耐えられる堰にするには、計画した可動堰がベストのはずだった。
 河川管理の欠陥を認めて国側敗訴を言い渡した92年の多摩川水害訴訟の差し戻し審判決が、建設省の頭から離れない。この時、東京高裁は「災害は予測できた」として、国に被災住民に対する3億円余りの賠償を命じている。この二の舞は避けなければならない。
そこで建設省は、万一、吉野川が洪水で破堤すれば、流域住民の被害はきわめて大きく、徳島市、鳴門市の二市六町に及ぶ、との持論を地元の審議会などに説明して回った。地区別説明会に通算40回、対話集会に18回、テレビ出演を含む公開討論に62回も顔を出して、可動堰に改築する必要性を訴えた。インターネット上のホームページでも、同じように主張した。96年には可動堰の実物の80分の1の模型を現地に持ち込み、公開実験も行っている。
 にもかかわらず、建設省の計画は徳島市民からはねつけられた。背景には、建設省幹部が認めるように「行政への不信」がある。いや、族議員と建設官僚とゼネコンが結びついた「政・官・業」ぐるみの公共事業への不信感といってもよい。洪水の危険をちらつかされてもなお「計画受け入れ」を拒んだのだから。

 住民投票に漕ぎ着けるまでの住民の執念は、すさまじかった。98年11月に住民投票を行うための条例制定を直接請求する署名運動で、徳島市有権者の49%に当たる10万人以上の署名を集めた。それが翌99年2月の臨時議会で否決されると、続く4月の市議選で反対議員を落選させ、住民投票賛成派議員を増やして6月に市議会で住民投票条例を成立させている。「自分たちの川」のありようについて、自分たち住民が意見を言うのは当然、と筋論を押し通したのである。
 水害対策が必要であるとの住民の認識に変わりはない。問題は、可動堰を建設するよりもほかにもっと生態系を壊さず、税金のムダ遣いを省き、景観を損なわない方法があるのではないか、というのだ。

川は地域住民「みんなの恵み」

 公共事業への住民の不信感は、近年、次の二つの思いから増幅されていることは疑いない。一つは、大型公共土木事業は自然を取り返しがつかないほど破壊し、生活から潤いを奪うという実感、もう一つは、国は巨額の税金を費やして公共事業をやるが、それは地域住民のためにではなく自分たち(政・官・業)の利益のためにやっているに過ぎないのではないか、との疑念である。
 吉野川の場合、周辺住民が第十堰に特別な親しみを覚えるのには理由がある。その原型ができたのは約250年前の江戸時代で、木の杭を河床に打ち込み、土地の青石を敷き詰めて堰をつくった。
 この工法は「水の流れをムリに妨げない」「堰の間から通らせる」という自然と共生する自然観がもたらしたものだ。「暴れ川」といわれる吉野川がどうしても暴れたい時には、せき止めずに堰を通り越して流れてもらうという考えである。
そこには欧米流に自然を改造し、制圧する傲慢な自然征服観はない。むしろそれとは対照的に、東南アジアでも広く見られる、自然に逆らわずにこれと折り合い、なだめる思想があった。近代化以前の公共工事は「自然と仲良くやる」のを基本にしていたのだ。そして川は周辺に住む住民の「みんなの恵み」であった。

 ところが、現代の河川法は吉野川のような一級河川を建設省の直轄と定め、この法を根拠に建設官僚が「自分たちの専管事項」として川を開発・管理するようになった。地元の住民が自分たちの生活を支える川をあれこれ考えようとも、建設省の管轄だからと手が出せない。こうして川は「民の手」から「官の手」に渡り、地元を無視して「官治」されるようになる。そして官治する側の建設官僚は、「治水はわが事業」とばかり傲慢な態度で河川や周辺住民に臨んだために、住民側に刻まれていった行政不信感はことのほか根深いのである。
 問題は、建設官僚が河川の管理権限を楯に巨額の治水事業予算(昨年度は1兆8000億円規模)を使って、日本の重要河川の至るところにダムや堰をつくり、護岸を理由に河床と側面の「コンクリート三面張り」を進めてきたことだ。
 ところが、バブル経済が崩壊し資産デフレが進んだ90年代も、公共事業は減るどころか治水事業をはじめ全体に肥大化傾向をたどる。98年には景気対策から史上最大規模の15兆円弱、昨年は第二次補正予算で12兆円台に膨らんでいる。
 にもかかわらず、景気拡大を狙ったケインズ政策効果はさっぱり表れず、国債の乱発から財政を急悪化させている。もう一つ、公共事業増がもたらした問題は、この国の「政・官・業」ぐるみの金権支配体制を温存させ、全国の就業者の10人に1人が建設・土木事業従事者という、いびつな産業構造をつくってしまったことだ。
 突出した「土建複合体」は、いまや現代日本社会の深層部に向け、ゼネコン―下請子会社―孫会社と傘を広げて根を張る。だが、その栄養分となる公共事業は、既に世界の先進国の中でも最も肥大化し、飽和状態に達しているのだ。

予算消化のため?の巨大工事計画

 国の公共事業総予算のほぼ七割を占める建設省の事業別5―7年計画をみると、驚くことに伝統的な治水事業の場合でさえ、現計画は前計画比で37.1%も伸びている。こういう巨大化した予算は、使い切らないと次に削られるから、国の直轄事業でない二級河川(都道府県が管理)や準用河川(市町村が管理)まで、中央官僚たちは予算の使途を特定する「個所付け」を行ったり口を挟んで、地域が舞台の公共事業の進め方も事実上、指図してきた。このことから、予算を吉野川堰に適用しようとすれば、予算を完全消化しようと不必要に巨大な工事計画をつくりがちとなる。
 結局、公共事業に湯水のようにカネを注ぎ込んだ結果、ダムや堰が乱造された分、自然環境と生態系、景観が破壊されてきたのである。よく米国のフリーウェイやドイツのアウトバーンに比べて日本の高速道路網はまだ貧弱だといわれるが、可住面積あたりの高速道路延長でみると、日本は既にドイツの1.7倍、米国の5.6倍にも上る。

 公共事業が生み出した公的固定資本の対国内総支出比で国際比較しても、日本は92年当時で6%と米国(91年1.8%)の3.3倍、ドイツ(91年2.3%)の2.6倍と最上位だ。この国の公共事業は、もはや行き着くところまで来ているのである。
 最後に、公共事業の巨大化がこの国を「土建国家」に変え、政治も経済も歪めてしまった点にふれておこう。
 この国の保守党の金権政治を支える最大の金脈が、ゼネコンからのキックバックにあるのは間違いない。田中派から経世会の金丸派、竹下派へと続く最強力な派閥勢力は、いずれも土建業界と太いパイプを持ち、やみくもに公共事業を推進してきた。長良川河口堰建設に反対した北川石松・元環境庁長官によれば、環境庁が反対しているさなかに業を煮やした建設省は「環境庁の了解を得た。工事は再開する」と記者発表している。それでも反対態度を曲げないでいると、堰をつくれと建設族の有力議員が自民党の衆参合わせて320人の議員の署名を持ってきた。時の実力者、金丸信(故人)からも、河口堰をつくるよう「自分の選挙の方はどうでもいいのか」などと3回脅されたという(北川石松・天野礼子編『巨大な愚行長良川河口堰』風媒社)。

税金ばらまき事業の背景

 バブル崩壊後も政府・与党が公共事業に税金をばらまき続けた理由が、単に景気対策のためだけでないのは、こうした背景からだ。
 だが、公共事業に惜しみなく注がれるカネは、国民の税金と郵貯、公的年金、簡保などの財政投融資資金なのである。日本がいまや先進国中最悪の借金国となったにもかかわらず、竹下派直系の小渕恵三首相はバラマキ型景気対策を連発し、行財政改革に立ち上がろうとしない。
 いや、経済の構造改革のほうも、戦後最悪の不況下なのに遅々として進んでいない。バブル三業種と呼ばれた「建設・不動産・ノンバンク」への大手銀行の貸出残高は、94年3月の80兆円弱をピークに全体として6―7%程度しか減っていないという。銀行はゼネコンが倒産すれば、債権が巨大なだけに自らの打撃が大きいのと大型倒産して社会問題化するのを恐れ、「追い貸し」や債権放棄に協力して経営破綻状況にあるゼネコンの延命に手を貸してきた。その結果、銀行の不良債権処理はなかなか片付かない。
 総務庁によれば、公共事業の大型化から98年平均の全国の建設業就業者数は業種別就業人口トップの662万人にも上った。事実、建設・土木業もここ数年、北海道など各地で旧来の地場産業を押しのけて「第一の産業」に台頭してきた。こうした押し寄せる公共事業の波が地方議会にも影響して、徳島市のように地元有力者の賛成派議員と可動堰を巡り住民投票を求める反対派の住民との間に深い溝をつくってしまったのである。


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