■Online Journal NAGURICOM 沢栄の「さらばニッポン官僚社会」 |
第188章 消えた韓国人観光客40万人/「国境の町」対馬を直撃
(2020年4月2日)( 月刊誌『NEW LEADER』(はあと出版)4月号所収)
対馬の地政学的重要性
昨年7月を境に急激に冷え込んだ日韓関係が、「国境の島」対馬の経済を直撃している。 一昨年は史上ピークの41万人に上った韓国人観光客が、7月以降は毎月、前年に比べ実に9割前後も激減している。 今年2月からは新型コロナウィルスの影響も加わり、歯止めがかからない。その実情をルポした。
(図1) 対馬の地図 (Google mapを基に筆者作成)
長崎県の対馬が日韓の仲を鏡のように映すことは、長い歴史が示す。その歴史は、対馬の地理的・地政学的条件に由来する(図1)。 対馬北端に近い比田勝から韓国の釜山まで約50キロ、これに対し対馬南の最大の町、厳(いず)原(はら)から博多湾まで約100キロと、韓国よりも日本のほうが2倍も遠い。対馬の北端からは釜山の町が眺望でき、夜には光を放つ釜山の夜景が楽しめる。対馬の北端からは釜山の町が眺望でき、夜には光を放つ釜山の夜景が楽しめる。
そもそも「対馬」という少し奇妙な島の名は、日本から朝鮮半島へ渡る際に津(船の停泊地)となる島(津島)に由来するとも、朝鮮半島南部の古代小国家・馬韓と相対する島であることに由来するともいわれる。 対馬の人口は3万379人(昨年12月現在)。前年比577人減った。この人口わずか3万人の島に、一昨年は41万人余の韓国人観光客が訪れたのだ。それが今、幻のように消えてしまったのだから、島民への経済的打撃は底知れない。
「経済はどんどん上がってストンと落ちた。免税店の中には閉めたところもある。韓国資本で建設中だった近くのホテルは、完成したがオープンできずにいる」。厳原の住民が明かした。 とりわけ韓国人観光客を目当てに、韓国人企業家が自ら資本を投入してつくったホテル、飲食店、免税店の打撃は「100%」と痛烈だ。うちホテルは建設後に開業できない1件のほか3施設が開店休業状態という。
日韓対立の渦中に巻き込まれた対馬はどうなるか―。考察に当たり、まず、対馬という島の他に例を見ない特徴を押さえておこう。
日本より朝鮮半島に遥かに近い日本海に浮かぶ島であるゆえに、国の軍事的な拠点としての対馬の重要性が、歴史的に宿命付けられる。対馬は先史時代の昔から日本に属し、最初に歴史に記録された3世紀前半の『魏志倭人伝』でも、すでに倭国として扱われている。 それから約1200年後の1471年に、朝鮮王朝の領議政(宰相)・申叔舟が編纂した『海東諸国記』でも、対馬を「日本国の西海道に属す」と記述している。
しかし新羅の賊船の襲撃に始まり、元(モンゴル帝国)と属国の高麗による侵攻(元寇)などから、軍事的防衛を何度も迫られた。古代からいや応なく国の安全保障の要衝となってきたのだ。
韓国に最も近い位置にあるばかりではない。対馬は、南北約82キロ、東西18キロ内外と細長く、その面積は離島を含め709平方キロに及ぶ。沖縄本島、佐渡島、奄美大島に次いで、日本で4番目に大きな島だ。地政学的な重要性が際立つ。
韓国の李承晩大統領は、大戦後1949(昭和24)年1月、対馬は韓国領だとして日本に返還を要求した。「竹島だけでなく、対馬も歴史的に韓国の領土だが、日本に強制的に不法に占拠された」と主張したが、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令部)に「根拠なし」と拒否される。
ところが、2005年以降、韓国の市議会や国会議員有志、政府与党らによる「対馬は韓国領土」の主張、返還要求が活発化する。
2007年には、前韓国海軍作戦司令官が対馬への軍事侵略計画を作成するよう韓国政府に進言した事実が発覚する。08年7月には、韓国の退役軍人らの団体21人が対馬市役所前で「独島(竹島)は韓国領土、対馬も韓国領土」と大書した横断幕を掲げて抗議活動を行い、地元市民と睨み合って騒然となった。
韓国で08年7月に実施した世論調査(19歳以上の男女700人が対象)によると、「対馬返還を日本に要求すべき」との主張に賛成する人は実に50.6%(反対意見は33.5%)に達した。
こうした新たな領土的要求は、国境の島・対馬の重要性が、韓国で再認識されてきたことを映す。同時に、それは後述するように、韓国が歴史的に経験した、対馬をベースとする日本軍の侵攻への潜在的不安の裏返しとも言える。
オープンできない韓国資本の新設ホテル
対馬は、こうした地理的な個性に、もう一つ、独特の風土が加わり、対馬の生存条件を左右してきた。
対馬の土地は山林が多く、平地に乏しい。耕作には向かない。早くも『魏志倭人伝』に次のように記されている。
「土地は山険しく、深林多く、道路は禽獣(きんじゅう)の径(みち)のごとし」
そんな風土であれば、対馬は地理的な有利さを生かし、日朝との交易で生計を立てるべき地、との生活観が、島民の間に確立するのは必然であった。漁業、林業、銀や銅などの鉱業で生活する道はあったが、安定した収入は難しい。 このような環境から、対馬は歴史の始まりから日本と朝鮮との交易関係に、どこよりも深く関わるようになったのである。
「行っ得! つしま つしまでお得に癒しましょう」―韓国人観光客の激減を受け、対馬ではこのような宿泊割引キャンペーンが繰り広げられた(写真1)。 1人1泊につき対馬の宿で宿泊料金が3000円分割り引かれる。サービス利用期間は昨年11月から2月末まで。長崎県と対馬市の対策補助金で実現した。
この割引サービスもあって、日本人観光客が来るようになった、と対馬市役所の観光課は言う。
(写真1) 「行っ得!つしま 宿泊割引キャンペーン」チラシ 出所)長崎県対馬振興局Facebook
日韓関係が急悪化する昨年夏以前、韓国人観光客向けに韓国の釜山港から対馬北の比田勝港と南の厳原港を結ぶ5つの船便が運行していた。だが、旅客激減から厳原港に発着する韓国便は、昨年8月に全面運休、比田勝港も3便に減便した。
なるほど、厳原の中心部を歩いてみると、真昼間なのに静かすぎる。韓国人の観光客らしき団体は見当たらない。市役所前のクリーニング店の店主は、以前は「この辺を韓国人がぞろぞろ歩いて、目の前の武家屋敷の写真を撮っていた」と語った。
近くのメイン通りに、韓国資本が建てたばかりだが、オープンできない観光客向けの「セントラルパーク・ホテル」がある(写真2)。近所の人の話では、韓国人オーナーは開業を諦め、売りに出したという。
夕暮れ時、一年前なら韓国人観光客で賑わった小川沿いの飲食街を訪れた。橋のたもとで会った韓国人らしきバックパック姿の若者に、英語で声をかけたが、「日本人です」との答え。ハングル語で看板が書かれた居酒屋やバーがひしめく通りを覗いたが、人っ子ひとり歩いていない。
韓国・釜山と船で結ぶ比田勝港を訪れた。対馬は、国防の最前線だ。古代から防人が対馬の地を守ったが、いまは陸、海、空の自衛隊が防衛に当たる。うち比田勝より北端寄りの地には、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれている。
かつては韓国人が連れ立って歩いた比田勝の土曜日の目抜き通り。人影はまばらで昼時なのにクローズしているレストランもある(写真3)。 船が発着するターミナル前の大きな免税店。入ってみると、店員は3人いるのに、客は1人もいない。韓国人向けにこしらえた韓国様式の遊覧船は、休業状態で所在なく岸に繋がれている(写真4)。
(写真2) 開業を断念した韓国資本の新設ホテル (写真3) 人通りの絶えた比田勝港の目抜き通り (写真4) 休業状態の韓国人観光客向け遊覧船
秀吉が植えた韓国人の日本に対する深い恐怖心
日韓の緊張しやすく解きがたい関係の淵源は、どこにあるのか―。韓国人の日本に対する深い恐怖心・警戒心は、1910(明治43)年から約35年間続いた「日韓併合」の遥か昔の豊臣秀吉による「朝鮮出兵」にさかのぼる。 厳原の図書館にある、長崎県文化振興課が編さんした『国境の島 交流・交易と緊張の歴史』などから、その辺の事情を詳しく知ることができる。
それによると、天下統一を果たした豊臣秀吉は、中国の明王朝の征服を企て、朝鮮国王に征服の先導を命じるが、入朝した国王の使臣たちに拒否される。 翌年の1591(天正19)年、秀吉は明征服の決意を表明、肥前の名護屋(今の佐賀県)に本営を置き、壱岐、対馬に築城を命じる一方、諸大名に朝鮮出兵を命じる。
秀吉は翌1592(文禄元)年4月、肥前名護屋に集結させていた軍勢に出撃命令を出す(文禄の役)。15万人余の大軍が壱岐、対馬を通過して朝鮮半島の釜山近くに上陸、侵攻した。
注目されるのは、小西行長、加藤清正らの軍勢が釜山城落城から山谷を越え、わずか20日ほどで都の漢城(ソウル)を陥落させたことだ。さらに1カ月余で平壌(ピョンヤン)を占領。 一方、加藤清正軍は北上を続け、7月に現・北朝鮮の東北奥で逃走中の朝鮮国王子2人を捕虜にしている。
朝鮮国王は明国との国境沿いに逃れ、宗主国の明に救護の派兵を要請、これに応え7月、明軍が派遣される。日本軍は戦いで多数の捕虜を得て日本に連行した。 その総数は不明だが、3万とも5万とも言われている。うちかなりの人がポルトガル商人に売られ、海外に連れていかれたらしい。
その後、明軍を加えた朝鮮軍やゲリラによる反撃、朝鮮水軍の勝利、日本軍の食糧・物資の補給困難などから戦局は一変して休戦に。だが、講和交渉の決裂で、秀吉は1597(慶長2)年、再び朝鮮出兵を行う(慶長の役)。
韓国側を驚かせたのは、日本軍の電撃的な侵攻スピードと鉄砲の威力だ。将兵の勇猛さにも恐れを抱き、当時、朝鮮では加藤清正を挙げて、子どもに「泣きやまないと、清正が来るよ」と脅したと伝えられる。
朝鮮出兵が対馬に与えた影響は大きい。戦争の間、軍勢を動員して出兵したのに加え、中継地として各軍への物資・人夫や通訳の供給を課された。それまでに築いていた朝鮮との友好な通商貿易関係の全てが途絶え、朝鮮との信頼関係と経済的基盤を失った。
家康が日朝関係を修復
こうした窮状を一転させたのが、徳川家康であった。家康は朝鮮出兵の失敗を認め、対馬の島主、宗義智に朝鮮との国交回復を命じる。困難な交渉の末、1607(慶長12)年、朝鮮使節団の来日に成功、2年後の1609年な」に日朝貿易が再開する。1607年に朝鮮国が送った大使節団は、504人にも上った。
使臣たちは、3月に対馬の厳原から入って6月に徳川家康に会い、家康が朝鮮を侵攻する気がないことを確認して家康への信頼を深めている。この時、韓国人の捕虜1418人が船8隻に分乗して朝鮮国に帰った(志岐隆重著『十二回の朝鮮通信使』)。
以後、江戸時代に12回にわたり朝鮮通信使が対馬を渡って、江戸や日光を訪れた。その間、双方の交易は続いて争いはなく、平和な互恵関係を保った。17世紀後半には、対馬藩の朝鮮貿易は最盛期を迎える。
この歴史的教訓は重要だ。「時の政権」が賢明なら、国は交易拡大を通じて友好な信頼関係を保ち、互いに経済的文化的繁栄を享受できる。
大韓民国民団対馬支部スタッフ、黄震夏氏は、日韓の政治リーダーに失望を隠さない。「政治の被害者になるのはいつだって一般の民衆。(対馬への韓国人旅行者が)40万人まで増え、せっかくうまくいっていたのに、政治のせいで急に悪化した」と憤慨する。
黄氏は37歳。16世紀末の秀吉の時代、朝鮮国王の正使を務めた黄允吉(ファン・ユンギル)の子孫という。日本人女性と結婚し、4歳の長男を持つだけに、日韓関係の現状がひどく心配だ。
「韓国の文政権は政権維持のために反日を煽っている。マスコミは文政権の方を向いている。政治が入るといつも関係が悪くなる。政治が手を出さなければ、自然によくなるのに」
黄氏は、居酒屋で韓国政治についての本音も語った。
問題の根は深いだけに、解決には時間がかかるとみなければならない。朝鮮通信使がもたらした約300年にわたる「交易の歴史」が、重要な教訓を与える。政府は和解に向け、「交易」の平和的作用を念頭に、根気よく自らの考えを伝え、交易の機会を広げ、相互理解を図る。このことが複雑にねじれた解決の糸を解きほぐす最善の道と思われる。