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沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
第174章 事故後7年目の真実/原発避難解除区域を歩く

(2017年6月26日) (月刊誌『NEW LEADER』(はあと出版)7月号所収)


帰り住むことができても 世代間で食い違う意見

2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から7年目の今年春、被災地は大きな転機を迎えた。一部を除き避難指示が解除されたためだ。筆者は4月中旬、原発のおひざもとで最もひどく被災した福島県浪江町と、隣接する南相馬市を支援ボランティアと共に訪れ、復興に向かう実状を取材した。以下はその現地報告である。

政府は3月31日と4月1日に浪江町と飯舘(いいたて)村、川俣町、富岡町の避難指示を一部を除いて解除した(図表1)。これら4町村の解除対象住民は約3万2000人。この結果、まだ残る避難指定区域は第一原発が立地する大熊、双葉両町の全域と、近隣5市町村の帰還困難区域となった。帰還困難区域とは、年間積算放射線量が50ミリシーベルトを超える、人が住めない地域を指す。
原発事故では、最大で11市町村の計およそ8万1000千人が避難対象となった。これまで除染が進んだ楢葉(ならは)町、川内村、田村市都路地区と、葛尾(かつらお)村、南相馬市の大部分で避難指示が解除されている。今回新たに解除された地域を加えると、面積で7割弱、原発事故前の住民人口との比較では約7割が故郷に帰り住むことができるようになった。

「90歳のおばあちゃんが帰りたい、帰りたいと言うから、休暇を取って(一時的に)帰って来た。自分たちはいま、(埼玉県)狭山に避難している。おばあちゃんと父は帰りたがっているが、自分と子供はいま住んでいるところがいい。放射能の不安もある。世代間で意見が違う。若い人が帰ってこなければ、(町の再建は)ダメだろうな。複雑な気持ちでいる」
桜が満開の浪江町の朝。町役場近くのベンチに座って、背の曲がった祖母と日なたぼっこをしていた40代初めの男性が、胸の内を明かした。
望郷と復興に貢献したいとの思い。他方で生計を立て日々一家を養わなければならない現実。この狭間で気持ちが揺れ、ひどく悩んでいる様子だ。時折り休暇の折に故郷に戻り、自宅の庭の伸びて乱れた草を刈ったりする。
原発事故は一家から故郷を突然に奪った。そして今、ようやく故郷に帰れるようになったが、心境は揺れる。6年の歳月は一家4世代の故郷への思いを真っ二つに分断してしまったのだから。

事故後5回も引っ越し 「帰りたいから帰って来た」

「東北でよかった。東京ならもっと大変だった」。福島第一原発事故に対しこう放言した今村雅弘復興相が4月、辞任に追い込まれた。この発言前にも、自主避難した人たちの帰還を国の責任において果たすという「国の責任」を否定して問題になった。
記者会見で自主避難・帰還は本人の責任で行う「自己責任」と言ったのだ。命からがら避難した人たちに対し、自分が判断して行ったのだから、国の責任うんぬんはおかしいという。「帰れない人はどうなるんでしょう」。フリージャーナリストの質問に「本人の責任でしょう。本人の判断でしょう」と答えたのだ。
避難民は突然の災難からやむを得ず逃れたのである。被災した人たちが無事に避難先で生活し、故郷に帰還できるよう面倒をみる。それこそが国策が引き起こした福島第一原発事故に対し、国が負わなければならない責任である。この自明のことを復興担当大臣自らが否定し、「自己責任」と突き放したのだ。
震災・原発事故からの復興は十分に進んでいない。町の中心部などへの集中的な除染で避難指示地域の指定解除を進めるが、自主避難を含む避難者数は今年3月時点でなお12万人近くに上った。ようやく避難しても避難先で児童、生徒らの陰湿ないじめに苦しんだ。追い込まれた末に、絶望して自殺した者もいる。

しかし逆境の中、めげずに頑張り、故郷に帰って生活を立て直し、町の再建に汗を流す人もいる。阿部加代子さん、59歳。避難先を転々としたあと避難解除された浪江町に戻り、市役所脇の小さなショッピングモールに構える商店で働く。自宅はリフォームして衣替えした。 彼女の笑みを絶やさない表情から、事故後に強いられた避難生活の苦労は想像もつかない。話を聞くうちに、5年に及んだ流浪はさながら迫害からの逃亡者を思わせた。
事故直後、隣町の駐車場に車中泊したのを入れると、浪江町に帰って来るまで夫と2人でなんと「5回も引っ越した」と言う。姉の住む郡山(福島県)、浪江に帰還する前の南相馬……だが、彼女の回想から悲しみの影は伝わって来ない。
「帰りたいから帰って来た」と淡々と話す。そして浪江で求人募集を知り、地元の商工会が昨年秋に町再建のため共同で開設した「ミッセなみえ」の店員に応募する。
「自分にはムリかと思ったが、わたし1人しか応募してこなかったの」。こうして町で唯一買い物ができる、10店しかないショッピングモールの一角に生活の錨(いかり)を下ろす。町にはまだスーパーマーケットも薬局もない。このモール以外で買い物ができるのは国道沿いにあるコンビニのローソンだけ。
そんな中、「ミッセなみえ」は、地元商工会に加入する18事業所の委託販売を行い、食品や雑貨、花、伝統工芸の大堀相馬焼の陶器などを店一杯に並べる。

なみえっ子が帰って来て欲しい カギ握る小中学校再開

町の復興が困難を極めるのは、震災に未曽有の原発事故が重なったためである。復興の厳しさ、つらさを浪江町の馬場有(たもつ)町長が3月、町の第2次復興計画発表時に語った。
「私たちは、この一日一日を懸命に生きてきました。今、思い返すと、コミュニティと生業を失った中での生活再建、目に見えない放射線への恐怖と対峙しながらのふるさと再生等、先の見えない状況が続き、肉体的にも精神的にも過酷な毎日でありました」(図表2)
元気な「なみえっ子」が帰って来れるように、町は来年4月に小中学併設校を再開する。現在、なみえっ子らは避難先の二本松市に臨時につくった小中再開校にスクールバスで通う。事故当時、小学1年生だった児童は浪江校開校時に中学2年生になる。
この再開校にどれだけ小中学生が戻って来るか―。若者、子どもたちが帰らなければ将来にわたる復興は覚束ない。親や子らが安心できるよう町は放射線量モニタリングを強化し、徹底した除染を実施する方針だ。

避難した浪江町住民の将来の帰還の意向は三つに割れる。町と県、復興庁が昨年9月に実施した住民の意向調査によると、「戻らないと決めている」が郵送回答者数4867世帯の52.6%と過半を占め、「すぐに・いずれ戻りたい」の17.5%を大きく上回った。「まだ判断がつかない」が、28.2%。うち20代の若者の8割近く、30代の7割超が戻らないつもりだ。
帰還する場合の家族については「家族全員」と「家族一部」を合わせ、7割超に上った。しかし「帰還する家族人数」をみると、「2人」が最多で、次が「1人」。家族揃って帰る姿から程遠い。帰るつもりの世帯の大多数が高齢世代だ。
復旧・復興は公共インフラ面では一定程度進んだ。損傷した上下水道、道路、ゴミ焼却炉、役場の再開、大津波への備えを強化した防潮堤づくり(写真)など。だが、生活インフラの復興は今後の課題だ。学校、病院、薬局、商店などの事業所。 若い人がどこまで戻って来るかが、復興の「カギ」となる。

全国から若者を集めよう 南相馬氏に吹く復興の息吹

浪江と隣接する南相馬市。昨年7月に避難指示を解除された。国道6号線に近い小高(おだか)区の旧小高町。福島第一原発から20キロ圏内にある。事故前に1万3000人近かった住民の1割、約1300人が2月までに帰って来た。
健康のため散歩していた60代初めの男性が、復興の手応えを語った。
「3月に入って帰還者がぐっと増えた。学校が4月から再開されたから、1日3人くらいの割合で帰って来る。小学校、中学校が開校した。ことしに入ってコンビニ2店舗が開業した。港が復旧して漁業も始まった」と言って、笑みを浮かべた。
南相馬市役所を訪れ、確かめると、15歳までの中学生以下の学童は2月28日時点で67人だったのが、4月12日現在102人に増えた。地元の小中学校再開の成果だ。市は遠方に住む学童に対し毎日、朝1便、夕2便のスクールバスで送迎して通学を支援する。
南相馬の再建は、北方の原町にある市役所本庁が辛うじて移転せずに済んだことで、スピードアップされた。

南相馬市には復興の息吹きを感じた。市には若者が足りない、ならば全国から集めよう―こういう発想で「みなみそうま復興大学」は4月、全国から集まる大学生の復興支援活動を助ける「復興支援要員」を1名募集。応募した4人から選ばれた女性が、5月から活動を開始した。復興大学とは、「復興への大いなる学びの場」を意味する。地元の住民、企業、団体と外部の大学生など復興支援に思いのある若者たちを結びつけ、市の復興を後押しする目的で3年前に創設された。復興にいよいよ弾みが付いてきた。
ここにきて浪江町も復旧の大方のメドをつけ、復興への態勢を整える。避難指示の解除で浪江への帰還が可能になったことが、むろん大きい要因だ。
解除に合わせ、6年余り不通だったJR常磐線の浪江駅から小高駅間の8.9キロの運行が4月1日に再開された。「お帰りなさい」の横断幕を掲げて地元住民が沿線で歓迎した。つれて浪江郵便局、JA福島さくら浪江支店の営業も始まった。解除後、1カ月経った5月初旬までに、避難していた300人ほどが帰還した。
馬場町長は来年に双葉郡8町村の交流イベント「ふたばワールド」を浪江町で開催する。双葉郡で最大の町が浪江町。原発事故で最も被害を受けた双葉郡の中心として、再び伝統の祭りや市を開こう、という計画だ。

二つの人の住めない町 先が見えない原発政策

1月と2月に馬場町長との懇談会に出席した避難先住民のアンケート調査に、30.3%が「すぐに、あるいはいずれ戻りたい」、21.3%が「避難先と浪江町の二重の生活を考えている」と答えた。5割以上の住民が、浪江町と関わり続ける意思を表明したわけだ。故郷に帰りたい一途な思いが伝わってくる。
他方で、思いは同じはずだが、住民の約半分は「戻らないと決めている」(前出の住民意向調査)。その主な理由が、放射能への不安だ。放射能が、復興の前に立ちはだかる。
若い人を戻し、町の本格的な復興を遂げるには、除染を徹底して続け、帰還困難区域をなくさなければならない。と同時に、福島第一原発の汚染水処理を徹底し、海洋と大気への放射能放出をなくして安心して住める地にしなければならない。

除染後の放射能廃棄物を安全に管理・保管する問題も、解決しなければならない。廃棄物は被災地のあちこちの仮置き場に、不気味な黒いシートに覆われて積まれてある。政府はこれを最終処分するまでの間、中間貯蔵施設を福島県内に設けて集め、保管するという。
この中間貯蔵施設は福島第一原発を取り囲む形で、大熊町・双葉町に整備する方針だ。だが、このことは両町が「人の住めない町」になることを意味する。膨大な放射能廃棄物の隣に、人は住めないからだ。さらに「中間」の先の最終処分場をどこに決め、どう処分するのか―政府はその解決策をまだ見出していない。
この処分の問題は、原発で燃やした後に出る高レベルの放射性廃棄物(核のゴミ)をどこに最終処分するか、の問題につながる。だが、原発を稼働する限り増え続ける「核のゴミ」の“ゴミ捨て場”が見つからなければ、原発政策は立ち行かなくなる。仮に地下深い安全な場所に閉じ込めることに成功したとしても、核のゴミがすっかり無害化するまで10万年もの間、安全に保管し続けなければならない。他方で、困難な廃炉処理を30〜40年かけて無事に終える仕事もある。
リスクも、時間も、資金も、人手も、途方もなくかかる至難な課題である。
未来の核燃料サイクル計画も、すでに1兆円超の国費を注ぎ込んだ挙げ句、いまだに稼働できずに破綻の状態だ。大災害を引き起こした上に先の見えない原発政策。それでもなお、原発の再稼働にこだわり続ける国策の意味と是非が、今改めて問われる。




(図表1) 避難指示区域の概念図
(クリックで拡大図が開きます)
<出典: 経済産業省ウェブサイト>

(図表2) 原発事故による浪江町の被災状況
<出典: 浪江町役場>

(写真) 復興工事が続く請戸漁港(浪江町)付近
<筆者撮影>