NAGURICOM [殴り込む]/北沢栄
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沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
第6章 自自公政権がめざす平成版「大政翼賛会」
政府が99年11月11日に発表した「経済新生対策」は、過去最大級の18兆円に膨らんだ事業規模と、多少の新味を盛り込んだとはいえ基本的には「四方八方バラマキ型」だった点で、自自公政権の性格を反映した。理念なき連立政権であるがゆえに、三党の要求がそれぞれ出されたまま、政策調整されずに対策にそっくり押し込まれた結果である。そのため、例えば介護保険制度の見直し対策費(9千億円)の計上に対し、自由党が反対意見を表明する場面もあった。このバラマキ予算の結果は、先進工業国中最悪となった財政事情をさらに悪化させる。

 もう一つ、興味深いのは、対策の直前に小沢一郎・自由党党首が自民党に合流を申し入れた、と報じられたことだ。小沢氏は6年前、政治改革を断行するため「党内にいては出来ない」と自民党を割って出たはず。それが、今回、介護保険の見直しなどで政策が一致しない自民党に体よく復党しよう、というのである。2000年1月の通常国会冒頭にも予想される衆院解散を前に、数で圧倒的優位に立つ保守・本丸の自民党に加わることで総選挙を乗り切ろう、という思惑が透けて見える。10月5日の自自公連立に続く自由党のこの動きは、「政治」のなりふり構わない一つの流れを改めて示した。それは、数の力に裏打ちされた「巨大与党の権力」指向である。政策は二の次なのである。

この「連立」が成立する見通しが固まった今夏から、「この国の政治」は質的に変転した。「鈍牛」とも「人柄の小渕」ともいわれた小渕首相が、平身低頭しながら日本の方向を左右する重要法案を圧倒的賛成多数を背景に次々に成立させていったのだ。この延長線上には明らかに、教育基本法から憲法改正に至る「戦後体制の総清算」がある。自自公の連立で、与党は実に衆院の357議席、議席率71.4%、参院の143議席、57%を占めるまでになった。衆参合計では500議席、66.3%と、憲法改正に必要な国会議員の三分の二に達する(ただし、参院は憲法改正を議決するにはまだ25議席足りない)。このマンモス化した与党は、マンモス化した政治権力を今後は何を目指してどう行使しようというのか、議会政治は果たして機能していくのだろうか。

これを占うために、戦争体制の出発点となった国家総動員法が成立した1938(昭和13)年3月前後にさかのぼってみよう。奇しくも、その年の2月に明治憲法(大日本帝国憲法)の公布50周年を迎えている。この時期を検証してみる必要がある、と筆者が思うのは、国家危機を背景に統制経済を進めた当時と、ある意味で「時代状況」と「時代精神」が似ているからである。

重厚長大型産業にこだわる

99年7月に成立し、10月から施行された産業活力再生特別措置法(産業再生法)は、そのコンセプトが国家総動員法時代の産物と見間違えるほどウリ二つだ。産業再生法は、重厚長大型産業の設備、債務、雇用の「三つの過剰」を解消し、リストラを進めやすくするのが狙い。分社化の特例措置や、合併などで税制上の優遇措置を受ける際の「事業再構築計画」の提出義務付け、主務大臣が法律適用を認定する制度などを盛り込んでいる。一方、戦時下で生産物資の配分に関する統制は国家総動員法と前年の37年に公布された臨時資金調整法に基づいて行われ、この統制経済下で1938年度から41年度までの生産力拡充の四カ年計画では、鉄鋼、石炭、軽金属、非鉄金属、石油及び代替燃料ほか14基礎品目が計画の対象となった(岡崎哲二、奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社刊)。

産業再生法には全企業の99%を占める中小企業を無視できないから、中小企業・ベンチャーの支援策も盛り込まれたが、大規模な設備を廃棄したい製造業の大企業に有利なのは事実。法案づくりを検討した、小渕首相設立の「産業協力会議」のメンバーの大半は製造業で、あとは建設、商社など。消費動向に最も敏感な流通業にはメンバーへの「お声」が掛からなかったいきさつがある。
 つまりは、製造業の巨大企業救済が初めからの狙いだったといえる。事実上、経団連の今井敬会長(新日鉄会長)と「官」が仕組んだ官民合作の法案だったわけで、再生法適用認定第一号が住友金属工業だったことも再生法の背景を物語る。王子製紙、三菱化学、宇部興産、三菱自動車工業などが後に続く見通しだ。
だが、産業再生法以前にも政府は、政府系金融機関の日本開発銀行(10月から北東公庫と統合して日本政策投資銀行として発足)を使って中小企業救済を名目に、大企業救済に乗り出している。98年12月に開銀法が改正され、銀行の貸し渋りに苦しむ中堅企業を支援する狙いから、借金返済や資金繰りのための運転資金にまで融資対象を広げることとなった。

ところが、融資体制の拡充に備えた開銀の増資分(国民の税金から使われた3,236億円)は、事実上、巨大上場企業の過剰債務の返済に充てられてしまう。というのも、日産自動車、ダイエー、西武百貨店、NKK、住友金属工業、神戸製鋼所、三井物産、三菱商事、住友商事、丸紅、日商岩井、大成建設、サッポロビール、いすゞ自動車、太平洋セメントなどが相次いで開銀に融資を申請し、開銀側がこれに応えたからだ。(開銀側は大企業救済の根拠として、98年11月の政府の緊急経済対策の政策目的に「中堅企業等を支援するため」と「等」の文言が入っているため、大企業への運転資金、債務返済用融資は例外的に認められる、と説明している)。
こうした「重厚長大」指向の産業政策が、日中戦争期とそっくりなのである。これでは、バブル崩壊で破綻しかけた旧来型産業が延命するばかりで、21世紀型新産業の勃興は見えてこない。

金融も国家管理下に

もう一つ、金融業界も長引く金融危機の下、厳しい国家管理下に入るか、政府からの圧力を絶え間なく受け続けている。野党の弱体化が巨大化した政権をますます増長させている面もある。いい例が、日銀に対する風当たりだ。
戦時下の金融統制の強化は、金利の高低の格差を大幅に縮小し、金利の硬直化を招いた。金利メカニズムが働かなくなり、金利の波動がごく小さくなったためだ。その一因は、戦費づくりのための国債の大量発行と、大蔵省の強制による金融機関の国債引き受けだったといわれる。
これに対し現状はどうか。自自公は10月7日、第二次補正予算の編成に関連して景気対策に必要な国債増発に伴う長期金利の高騰を抑えるため、日銀に量的な金融緩和を求めることで一致した。戦時中と違うのは、1942年に公布された旧日銀法が日銀を実質的に大蔵省に従属させる立場に置いていたため、大蔵省の要請があれば日銀は国債を引き受けざるを得なかったのに対し、いまでは日銀の独立性が確保されていることだ。

 国債を日銀が引き受ければ長期金利は上昇せずに済むが、日銀はインフレにつながる引き受けを安易に約束するわけにはいかない―とあって、与党三党は量的な緩和要求を持ち出したのである。これに先立つ9月27日には、日銀に不満を持つ小渕首相自らが「(日銀は)あまり独立独歩になってはいかんといわれている。日銀総裁も私が任命したわけではない」と発言して、物議をかもしている。だが、長期金利上昇の根本的な原因は、景気低迷を長引かせた政府・与党が公共事業中心の従来型の景気刺激策を実施しようと、財政規律を失って国債を乱発したせいである。おごれる巨大与党が、自らの政策責任は棚上げして日銀にインフレ圧力をかける構図である。
 バブル経済の崩壊と共に急低下した日本の国力と国際的地位を引き上げたい、との「政治」の願望は理解できるが、その手法とコンセプトがアナクロニズムで問題なのである。理由は、自自公が今夏、成立させた「国旗・国家法」「通信傍受法」「改正住民基本台帳法」のどれもが「中央集権型国家の再構築」と、個人のプライバシーと内心を侵害しかねない「国民のコントロール」を目論んでいるからだ。

 この点で、戦争体制が進んで1940年に生まれた新体制運動「大政翼賛会」が、自自公が目指す方向の帰結を暗示しているかのようである。

「戦時」からの心情の連続性

 大政翼賛会の発会式で近衛文麻呂首相が行った挨拶が、この呉越同舟の運動の異質ぶり を照らし出している。―

「申すまでもなく、今やわが国は、明治維新にも比すべき重大なる時局に直面して居ります。わが大政翼賛の運動こそは、古き自由放任の姿を捨てて新しき国家奉仕の態勢を整えんとするものであります。・・・もし、この場合において、宣言綱領を私に表明すべしといわれるならば、それは『大政翼賛の臣道実践』ということであり、『上御一人に対し奉り、日夜それぞれの立場において奉公の誠をいたす』ということに尽きると存ずるのであります。・・・」当初、近衛と側近が考えていたのは一国一党的な新党の樹立であった。欧州で電撃的な勝利を続けるナチス・ドイツにならって、「世界新秩序、統制経済、権力一元化」を柱にした新体制だった。

 しかし曲折の末、一国一党の構想は挫折し、大政翼賛会は公事結社として立ち現れる。総裁は首相が兼任し、道府県から市町村まで支部を置き、各支部には「上意下達・下情上通」と「臣道実践の道場」として協力会議が設置された。部落会、町内会が行政機構として位置付けられ、全住民は隣保班(りんぽはん)、隣組に編成され、月一回の隣組常会に全成人の参加が義務付けられた。息詰まるような相互看視網が全国を覆ったのである。大政翼賛会の発足から二ヶ月後、運動の具体的目標を示す実践要項が発表されている。 それによると、

「今や世界の歴史的転換期に直面し、八紘一宇の顕現を国是とする皇国は、一億一心全能力を挙げて天皇に帰一し奉り、物心一如の国家体制を確立し・・・」

 というふうに始まっている。

 それから59年後の99年10月19日、自由党の西村真悟・防衛政務次官が『週刊プレイボーイ』誌上で日本の核武装必要論と併せて次のようにも発言したことが明るみに出た。かっこの中は、対談相手の発言(朝日新聞10月20日付)。

 政治家としてのライフワークは国軍の創設ですわ。(自衛隊じゃなくて国軍)もちろんそうです。(地球防衛軍というのはどうですか)そら、オモロイ。全世界への展開。「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」や。ボクは民族主義者やけど、民族主義者でなかったら政治家の資格はないと思ってるからな。ここには、「戦時」からの心情の連続性が認められる。なぜ、連続しているのか、といえば、みじめな敗戦にもかかわらず官僚統制の「戦時体制」が戦後にも引き継がれ、加害者として被害者としておびただしい犠牲者を出した戦争の反省と責任の追及を、自ら行わなかったせいではないのか。その傍証として、対米開戦後、東条英機内閣を商工大臣として支え、戦争を推進した岸信介はのちに「60年安保」時の首相を務めている。同じく東条内閣の時に商工省事務次官を務めた椎名悦三郎は戦後の池田勇人首相の下で通産大臣に就任している。中央官庁のほかの高級官僚も戦後パージされることなく、ほとんどが戦後も「官」の主要ポストに昇格した。
官僚たちは戦災からの復興とその後の高度成長に向けて、引き続き統制経済の育成・強 化に腕を振るったのである。[敬称略]


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