■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「最新・世界自動車事情」
 ☆番外篇『最新・世界自動車事情』      
(2002年1月31日)

最新・世界自動車事情2 (『テクノオート』2001年8月号掲載)

自動車は「空間」と「時間」を支配するツール

 この1カ月余、自動車愛好家にとって他人事でない出来事が3つ相次いだ。
 1つは、互いの創業時から深い友好・取引関係にあった米自動車メーカー、フォード・モーター社とブリヂストン傘下の米タイヤメーカー、ブリヂストン・ファイアストン社がけんか別れし、取引を中止したこと。タイヤ破損が引き起こした174人もの死亡事故はどちらの会社の責任なのか、真相解明は今後に持ち越された。
 2つめは、小泉内閣の打ち出した道路特定財源を一般財源化して使途を道路以外に広げよう、との構想だ。これが実現すれば高速道路の拡張にストップがかかるばかりでなく、自動車利用の将来像も変わってくる。
 3つめは、日本政府の対中農産物セーフガード(緊急輸入制限)への報復措置として中国政府が自動車など3品目に特別関税を課す、と通告してきたことだ。ネギの報復に日本の輸出産業の精華、自動車を中国側は狙い撃ちしたのである。

フォードVSファイアストンの戦いの行方

 「これら3つの出来事は、はからずも自動車が日本人の生活に欠かせない交通手段と化し、もはや自動車から無関心ではあり得ない実情を示す。いや、それ以上に、日本の経済パワーの「象徴」にさえなっている事実に気付かされる。
 フォードVSファイアストンの戦いは、次第に形勢が混沌としてきた。なぜなら、タイヤ破損による横転事故が多発したフォード製SUV(スポーツ用多目的車)「エクスプローラー」の構造にこそ問題がある、との見方が増えてきたためだ。
 ベネズエラ政府当局者が「原因はタイヤにではなく車体の欠陥にある」と、同車の販売禁止を示唆したのに続き、ファイアストン社側はフォード犯人説を裏付けたとする独自の報告書を米運輸省に提出した。次いで6月19日には、米運輸省がタイヤ1300万本のリコールに伴い、ファイアストン製と取り替えた他社製タイヤに交換前より多くの異常報告が寄せられたと米下院公聴会で証言、フォード車の安全性を調査する方針を表明した。
 問題の「エクスプローラー」を製造したフォードの米ミズーリ州の工場は古いうえ、労働争議も多く、旧式の組み立てラインでタイヤに傷が付いた疑いも浮上している。
 今後は横転・死亡事故を巡る約200件の訴訟と米議会公聴会で事故原因が追及される。両社のダメージは大きく、生命の安全性が問われるだけに今後の業績悪化は予想を上回るだろう。

道路財源の見直しで重大変化

 道路特定財源を道路以外の例えば大気汚染対策に使うか、一般財源化しようという小泉内閣のアイデアは、従来の公共事業システムを覆すインパクトがある。なぜなら、道路整備を目的にガソリン税とか自動車重量税を取って、その財源で道路をつくってきたのだから、財源が他用途に使われるとなると、まず新しい高速道路建設が難しくなる。
 自動車側視角からみると、高速道路ネットワークの成熟に伴い、自動車利用のあり方とクルマづくりのイメージも変わってくる。少なくともクルマの評価に、「環境」「安全」「個性」の要素はさらに重要になろう。

中国、対日輸入制限に自動車を選ぶ

 中国の対日特別関税品目に自動車と携帯電話、エアコンが選ばれたことは、象徴的だ。中国に対して日本がセーフガードを発動したネギ、生シイタケ、イグサ(畳表)の農産物3品とは、まるで重みが違う。日本製品はいずれも日本の輸出産業を代表するシンボル的な存在だ。なかでも最もシンボリックで、影響も大きいのが自動車。昨年の対中自動車輸出額は約4億2000万ドルに上っている。
 わたしはこの6月、中国の青島を訪れたが、海岸沿いに立派な道路が敷設されモダンな別荘が新築されているのを見て「中国もいよいよ高度成長期に入ったな」と感慨を深めた。ちょうど東京オリンピックの頃の日本のような活気である。連れの中国人が「中国はいまが歴史上一番いい時代だ」と胸を張った。
 ところが往来する車を観察してみると、日本車は意外と少ない。中国で合弁事業をしているフォルクスワーゲン社のアウディのようなドイツ車が目立つ。つかまえた小型タクシーは韓国車だ。日本車への依存は案外少ないのではないか、とその時に思った。明らかに、中国は日本製品の「象徴」として効果は絶大で、しかも中国への影響が少ないものを念入りに選別して、特別関税品目のマナ板に載せている。
 今回の中国側の強腰の対応に対し、日本政府は「想定していた展開とは大きく異なる」(毎日新聞6月20日付)と受け止めた。中国の経済が力強く成長し、この昇る勢いを背景に中国政府は強気の勝負に出たが、それを日本政府は読めなかった、ということだろう。

空間と時間、そして機械を制御する

 さて、前月号でふれた自動車論に立ち返ろう。自動車はアメリカ文明の「象徴」である。そして、それは自動車が単なるモノではなく、西部開拓時代に使った馬(自動車は当初horseless carriage―「馬なし馬車」と呼ばれた)に取って代わり「移動」と「開拓(自己解放)」をよりパワフルに実現したツールであったからだ、という趣旨のことを前月号に書いた。
 アメリカ人はヘンリー・フォードのようにこの自動車の魅力の先駆的な開発者だったのであり、早くも1920年代に大衆はその魅力を自ら扱うことで知ったのだ。いまやモータリゼーションの大波は国境を越えて広がり、地上の隅々まで席巻した。人はなぜ自動車に乗るのか。この問いは、人類全体に等しく向けられる。
 答えは、人間精神に照らしてみれば、次のように言えるだろう。自動車は何より「空間と時間」を支配するツールだから乗るのだ、と。距離を縮め、道がある限りどこにでも行け、到達に必要な時間を大幅に短縮でき、その分自由な時間を得る、モビリティとスピードこそが魅力の源泉だと。
 あるいは、こうも言えよう。それは鋼鉄とガラスの枠で外界から遮断されたプライバシーの空間をもつ移動体であり、複雑なメカニズムを簡単に操作することで機械の下僕の身から主人に成り代わることができる、と。自分を日頃こき使う機械文明につかの間の復讐を遂げ、憂さ晴らしをするわけである。
 この機械を自らコントロールする、という「主体の自覚」こそが、自動車の魅力を増していることは間違いない。マーシャル・マクルーハンの言うように、自動車は画一化と規格化のメカニズムが生み出した近代の産物なのだから、いつもメカニズムに従属させられているオレが、こいつを逆に自動的に操る、というのはすこぶる心地よいのである。
 ここに、機械装置の自動化とオプション化を自動車メーカーが競い合う理由が隠されている。ユーザーがそれを喜ぶのは機械のより完全な支配者になれるからなのだ。
 この上に、自動車には、鋼鉄の強剛な外枠、しなやかな姿態、ふんわりした乗り心地、小刻みの振動と揺れ―といった性的要素が加わる。

(本連載は、第5回目までほぼ1週間おきに掲載されます)

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