■Online Journal NAGURICOM
沢栄の「さらばニッポン官僚社会」
<番外篇> 信管を外せ/「武士」「商人」使い分ける

(2013年5月27日)  (山形新聞「思考の現場から」5月18日付け掲載)

これで2020年夏季五輪の東京招致の可能性は、大きく後退した。東京都の猪瀬直樹知事のトルコのイスタンブールを指したイスラム教国批判の失言である。
この失言問題に国際オリンピック委員会(IOC)は、処分せずに「招致活動の行動規範を守るよう」改めて念を押し、形式上は“一件落着”した。だが、都知事の発言の影響は大きい。IOCの東京への評価を一挙に下げてしまったことは疑いないからだ。

米紙ニューヨーク・タイムズが伝えたところでは、猪瀬知事はインタビューで「イスラム諸国はけんかばかりしている」と述べた。都知事としての発言がどんな波紋を呼ぶか、については考えてもみなかったようだ。
思っていることを「暴言」とも思わずにそのまま口外する―。石原慎太郎前知事の後継者らしく、その資質までそっくり引き継いだように見える。
しかし、「けんかばかりしている」と言った本人が、「けんか腰」ではなかったのか。逆なで発言に冷静に応じたイスタンブール当局者の“大人の対応”は、それと対照的だった。やりとりから東京都知事の好戦的な印象が余計に目立ち、日本人の多くはバツの悪い思いをしたのではないか。

けんかをふっかけるふうの、相手を刺激する対外発信は、このところ猪瀬氏に限らない。尖閣などで隣国との緊張関係が高まる中、安倍晋三内閣の現役閣僚と168人もの国会議員が大挙して靖国神社に参拝した。
安倍首相は中韓の批判に反発し、「どんな脅かしにも屈しない」と国会で公言したが、今は北朝鮮が核攻撃の構えを見せている非常時であることをお忘れか。日本の安全のために、ここは北朝鮮問題で中韓と協力・連携しなければならない時ではないのか。
韓国が歴史認識として最も問題視する戦時の慰安婦問題。これを巡って、安倍首相は早くから旧日本軍の関与を認めた1993年の河野談話の見直しを表明して隔たったままだ(ただし、安倍首相は5月15日の参院予算委員会で、過去の植民地支配と侵略を謝罪した村山談話を継承する考えを示した)。

政府が4月末に開いた「主権回復の日」の式典も異様だった。閉式直後、天皇、皇后両陛下を前に「天皇陛下バンザーイ」の会場内の叫びに応じ、壇上の安倍首相ら出席者の多くが万歳を三唱。戦時中に逆戻りしたかのような雰囲気を醸した。
こうした動きに、米議会調査局は5月1日付の日米関係の報告書で、安倍首相の歴史認識に懸念を表明した。
「このままでは日本は米国からも見放される恐れがある」。米国の親日派の友人が筆者に語った言葉だ。米国内でも隣国との摩擦解消に取り組もうとしないばかりか、むしろ亀裂を深めていくかに見える日本の政治・外交を不安視する声が広がる。
米国では外交場面で相手に対しdefuse(デフューズ)する、という言葉をよく使う。爆発しないよう「信管を外す」という意味だ。巧みに説き伏せて暴発や衝突を防ぐソフトな交渉手法のことである。
外交は硬軟の技術で臨まなければならない。不当な領土要求などは断固はねつける一方で、やんわりと説得したり懐柔する外交手法も重要だ。
比喩的に言えば、ハードパワーで臨む「武士道」とソフトパワーで丸め込む「商人道」を併せ持つ必要があるのだ。イメージで言えば、商人道の達人は、江戸時代の出羽庄内で改革家として活躍した本間家3代目の本間光丘だろう。光丘は商人として腰を低くし、目立たないように蓄財し、砂防林づくりの土木事業など地域振興に尽くした。
「武士」と「商人」の2つの顔と手法で、手強い相手に対するのである。この双方を兼備し、「場」に応じて使い分けて「本物の強さ」が現れるのだろう。

古今東西、大衆は単純な分かりやすさと強さとを政治家に求める。心の深層には、満たされない期待と自分たちにない“ヒーロー待望論”がある。
そこでポピュリストの政治家たちは、しばしば敵を作り上げたり不安や恐怖をことさら煽って、自分たちの「威勢のいいところ」を誇示しようとする。「けんか腰」の好戦性が、これらポピュリストたちの目に付く特徴だ。
彼らの目には、信管を外すようなソフトで練達な外交は、すべて弱腰と映る。今回の都知事発言も、身に付いた習性が災いを招いたようだ。
政治家は謙虚に、柔軟に相手方に臨んで、こちら側に巧みに引き寄せる、外交のソフトウェアの効用を冷静に見直す必要がある。