■Online Journal NAGURICOM 沢栄の「さらばニッポン官僚社会」 |
<番外篇> 原発事故は何を意味しているか
(2011年6月6日)
被災地の2つの風景を記憶の海から繰り寄せてみる。
4月のある寒い雨の日、眼前に突然広がった日本製紙石巻工場の荒廃とした風景に息を呑んだ。大人の背丈ほどもある、トイレットペーパーの化け物のような紙のロールが、工場の広大な敷地内に何百個と散らばっている。巨大津波がこの工場の壁を破って中にあったロール群を襲い、引き波と共に外に放り出したのだ。地元のタクシー運転手がつぶやいた。「この有様ですから、当地の復旧には10年かかるとも言われています」。同製紙工場の壊滅で紙が不足し、新聞や雑誌の発行、包材の生産に支障を来したことは記憶に新しい。
翌日に見た松島の町の、のどかな風景は対照的であった。津波に押し流された家は一軒もない。沿岸部の一部は冠水状態になったが、津波が襲った三陸地方で唯一、大きな被害を免れた。あの瑞(ずい)巌(がん)寺も、門前の桜が咲き誇り、相変わらず凛(りん)と立っていた。ここの200メートルもある参道の180メートルほどが水浸しになったが、いまでは何事もなかったかのように林の中に静まり返っている。
なぜ、松島は助かったのか―。海辺にある喫茶店の経営者が明かした。「松島湾には260の小島があり、それぞれが津波を散らし、静めたのです。防潮堤は観光の妨げになるから造っていなかった。ところが、名物の島がその役割をしてくれました。松島だけが守られたのは島のお陰です」。そう言うと、二階のベランダに案内して3.11当日の恐ろしい光景を話し始めた。
「ほら、津波が押し寄せ、目の前に見える双子島の岩にぶつかった。すると、津波は左右二つに分かれ、こちら正面にはわずかしか来なかった」。なるほど、名勝をつくる数々の島が大津波を阻んだのだ。津波は三陸の人びとが築いた人工の堤防のすべてを乗り越えたが、「自然の防潮堤」には歯が立たなかったのだ。
これは何を意味するか。大津波が引き起こした福島第一原発事故と合わせて考えてみよう。
原発事故もまた、人間の技術への傲りが招いた。大津波も原発事故も、油断して「備え」を欠いた点で共通する。最悪の事態を「想定外」だと甘く見て、十分に備えなかったのである。
しかし、両者には決定的な違いがある。津波は突然来て、深い爪痕を残して去った。一回限りの荒々しい暴力である。
これに対し、原発の暴力の方はいまなおコントロールできずに進行中であり、放射能の影響が表れてくるのは、主に今後であり将来である。その影響は胎児、乳幼児、子どもの順にDNAを壊すことで「新しい生命」ほど傷つける点で差別的、破壊的であり、大気と水と土を広く汚染させ、国境をも越える点で一層広域的である。そして姿が見えず、プルトニウムなどに内部被曝すれば体内に長期間蓄積される点で、とらえがたく、不気味である。
とりわけ毒性の強いプルトニウムは、3号機がこれを用いた「プルサーマル発電」を行っていたから要注意だ。
だが、この限りなく物騒な原発事故は、巨大な意味を秘めている。それは経済活動と生活を維持するエネルギー源として、原子力は危険すぎる、ということだ。地震のないドイツでさえ、福島を見て原発からの撤退を決めた。まして日本は、地震・津波列島なのだ。原発の新規建設を取り止め、長い年月をかけて廃止していくのがよい。
これを機に、日本は原子力と地球温暖化を招く化石燃料から、地球の自然環境の中で繰り返し起こる現象から得られる「再生可能エネルギー」に舵を切っていくべきだ。太陽、風力、水力、波力、地熱、バイオマス(生物エネルギー)などに向けて、である。
いずれも炭酸ガスを排出しない「クリーンエネルギー」だが、原子力との違いは安全・安心であることだ。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は5月9日、2050年には世界のエネルギー供給の80%近くを再生可能エネルギーで賄えられる、との予測を発表した。日本は原発事故を踏まえ、「クリーンエネルギー」のトップに位置付けていた原子力を外し、再生可能エネルギーに置き換えて方向転換するのだ。
例えば、世界6位の海洋大国の利点を生かした波力と海上風力、地震大国を生かした地熱の開発は相対的に有利な立場にある。現に三菱重工は世界トップの地熱発電プラントのメーカーとして、地熱発電に熱心なアイスランドなど世界各国から受注している実績がある。
原発事故を契機に、次の世代に新エネルギーの「大いなる果実」をもたらすかもしれない。