■Online Journal NAGURICOM 沢栄の「白昼の死角」 |
第227章 水俣病全面解決に道 / 線引き救済を否認
(2023年11月26日)
画期的な大阪地裁判決
水俣病の公式確認以来、67年。水俣病未認定患者への損害賠償を国側に命じた9月27日の大阪地裁判決は、ようやく水俣病の被害実態を的確にとらえた画期的な判決となった。水俣病特別措置法が救済の対象とした狭い範囲を取り払ったことで、大阪以外でなお係争中の未認定患者の全面救済へ道を開いた。
なぜ画期的か。有機水銀の毒で中枢神経を冒された全身の病を重い急性症状を中心に水俣病と認定してきたことや、その被害地域範囲も限定的にとらえて線引きした法律を「不合理」と退け、救済対象外だった原告全員を水俣病と認定したからである。救済されたのは、病が長期にわたり緩慢に進んだ慢性型症状だったり、不知火海(八代海)沿岸の特措法の救済対象外に居住した未認定患者だ。
筆者は熊本県水俣の水俣病多発地域で“隠れ患者”が次々に見つかりだした1970年代初頭、共同通信記者として現地を頻繁に訪れ、実情を取材した。当時、水俣病は激しくけいれんする、よろめいて歩けない、言葉がもつれる、難聴や視野狭窄、狂乱状態にもなる、といった急性劇症の患者のみが「水俣病」と認定されていた。ところが現地で見聞きした病状は、重病の程度から身体のどこかしら不自由で、近頃ひどくなった、といった慢性型の訴えまで多種多様に見えた。とはいえ、患者家族に共通している訴えが、「手足のしびれ」だったことを思い出す。手足のしびれから病が始まった、とみるのが自然だった。
急性劇症の患者は水俣湾周辺で頻発し、多くが死に至った。例えば多発地域の月ノ浦。原因不明の奇異な症状から、その周囲から当初、「月ノ浦ハイカラ病」とも呼ばれた。
石牟礼道子著「苦海浄土」によると―「(漁婦の)ゆきの震えを見ながら、仲間たちは『あんたも、月ノ浦のハイカラ病になったかな』といった」。ゆきの症状も、手足のしびれや目のかすみから始まった。ゆきの目は「沖のイリコの群を部落の山の上から見とおせる目」だったが、「そのゆきが、夕食をしまえて針をもちながら、ときどき首をふって、しきりに目をこするようになった」とある(容体悪化し4年後死去)。
一方、原因企業チッソの工場排水に含まれたメチル水銀は、どの地域にまで被害を及ぼしたのか。メチル水銀を蓄積した魚介類を多く継続して食べた人たちが発症した。魚は海中を広く回遊し、当時の地産地消経済の下、地域住民が「海の幸」を毎日のようにたくさん食べるのは当然だった。
漁師にとっての漁場は、不知火海一帯であった。『苦海浄土』によると、漁師は不知火海を「庭」のように巡った。「ほーい、ほい、きょうもまた来たぞい」と魚の寄る瀬に呼びかける漁師もいた。水俣湾周辺を越え不知火海沿岸一帯の住民の誰もが、普段の食を通じて濃淡はあれ有機水銀の毒にさらされた。
2009年に成立した特措法は、未認定問題解決の根拠法とされたが、欠陥があった。メチル水銀汚染の対象範囲を狭めて地域と患者を線引きして認定したからだ。政府はその後、未認定患者の訴えが増加してもこれを改めようとしなかった。被告の環境省と熊本県は、特措法の「線引き行政」に基づき未認定問題の最終解決を図ろうとしたが、新たな知見によって否認された。判決は、特措法の線引きを対象枠外でも水俣病被害を認定したのである。
<写真>不知火海 出典:熊本県ホームページ
明らかな法の不備
達野ゆき裁判長は、かつて熊本県や鹿児島県で暮らした原告全員の128人を水俣病と認定した判決理由に、「慢性水俣病では感覚障害が典型的に見られる」と明言した。手足のしびれなどだ。その上で水俣病の複雑な現れ方を指摘した。「メチル水銀暴露から長期間経過後に発症する遅発性水俣病の存在は否定できない」と述べ、特定の年数で発症時期の限定をすることはできない、と多様な病像を認めた。
遅発性水俣病の認定も、筆者には「今頃になって、ようやく」の感がある。既に50年も以前、地域住民を検診していた原田正純・熊本大医師(故人)に取材して「遅発性水俣病もある」と聞いていたからだ。当時、メチル水銀の長期微量摂取の結果、遅れて発病するケースもある、と理解した。
訴訟で国側は、特措法に定めた対象地域を前提に、対象地域から離れた住民の発症リスクは低くなると主張した。特措法では、水俣湾を中心に「熊本、鹿児島両県の9市町の全域または一部」と対象地域を限定している。判決はこれに対し、対象地域外でも不知火海で取れる魚介類を継続的に多食した場合、「水俣病を発症し得る程度にメチル水銀を摂取したと推認するのが合理的」と判定した。
原告らの中には、対象地域とされた鹿児島県阿久根市のうち同市内でありながら線引きされて対象外とされた元阿久根市住民もいる。特措法の不備は明らかだ。判決は国側がよって立つ特措法の根拠をきっぱり否定した。
なぜか環境省が控訴
水俣病が公式に確認されたのは1956(昭和31)年。12年後の68年、政府が水俣病の原因をチッソが排出したメチル水銀と断定し「公害病」と認定した。熊本地裁が73年、チッソの賠償責任を認める初の判決を出す。以後、水俣病の認定基準に満たない人たちの未認定問題が噴出。急増する認定申請を前に、国は77年に認定基準を厳しくしたため、患者らは救済を求めて続々と裁判に訴えた。
司法の判断が注目される中、2004年の最高裁判決は、国の認定基準より幅広い基準を採用した。政府はこれを受け「政治決着」を掲げ、より幅広く救済を図る狙いから特措法を施行した経緯がある。しかし特措法で「該当せず」とされた原告が、国などに損害賠償を求めて熊本をはじめ大阪や東京で集団提訴したのだった。同じメチル水銀が原因の新潟水俣病でも、特措法の枠組みから漏れた住民らが新潟地裁で係争中だ。
水俣病は、恐ろしい公害病として国際的な波紋も広げた。水俣病の教訓から日本主導で水銀や水銀製品の製造・輸出入を規制する国際条約「水俣条約」が2017年に発効、約120カ国が加盟した。
このような水俣病の病像と被害への知見の深まり、関心の国際的広がり、特措法の不備をことごとく無視するかのように、環境省は今回の大阪地裁判決を不服として控訴した。閉ざされた環境意識がそうさせたのか、理解しがたい思いだ。